ギラン・バレー症候群 治療とリハビリの記録

2018年3月にギラン・バレー症候群を発症してから米国ハワイで治療とリハビリを行なってきた。アメリカと日本の比較も含めて参考までに治療の経緯を記録する。

初めて歩いて椅子に座った

2018年3月27日

日本に帰りたいと言った記憶がある。この時点で自分の病気や容態を理解していなかったので、死ぬ前に日本に戻ろうと思っていたのかもしれない。

日本への移送について産業医を通して神経内科の先生の見解を伺った。人工呼吸器を付けたままの搬送は危険を伴うので勧められないということだった。また費用が700万円かかることも分かった。

また、妻によればヒロの病院の医療レベルや対応は満足の行くものだったそうで、無理に日本に搬送する必要はなかったようである。 

 

2018年3月28日

職場から上司など3人が見舞いに来てくれた。僕は半分眠っている状態だったが、みんなの話し声は少し聞こえていた。病院のドクター、ナース、ソーシャルワーカーも含めて病気の状態や日本への搬送について話したようである。

これまでずっと寝たきりだったのだが、入院して以来初めて歩行器を使って歩いて、そして椅子に座った。ベッドから室内の椅子までは支えられながら歩いた。病院のスタッフ5人がかりの作業で、座れた時はみんなとても喜んでいた。

 

夢の中では・・・

この頃でも自分の病気についてまだ理解していなかった。夢の中では何度か心臓が停止していたし心臓移植手術を2回受けていた。後で実際には自分が心臓移植をしていないと聞いて本当に驚いた。

またたとえ生きていたとしても自分は体が動かない上に心臓、呼吸器に疾患があってこの先ずっと重い障害を持ったまま生きていくのだと思っていた。後でほぼ回復する病気だから元通りに生活できると聞かされてもにわかには信じられなかった。

 

夢の中では一度死んでもいた。ハワイで葬式が予定されていて死んだ後に冷凍保存されていたのだが、葬式の当日に解凍されて心臓がまた動き出してしまった。

棺桶のような物に入れられているのに気付いて、その中にナースコールのボタンがあってそれを押したらヒロメディカルセンターのナースが慌てて助けに来てくれた。

僕の葬式のために日本からも多くの人がハワイまで来ていたが、式場に向かう途中で生き返ったと聞いてみんなびっくりしていた。

こんな非現実的なことでさえ本当だと思っていた。意識が少しはっきりした頃に恐る恐る妻に聞いたみた。

「僕の葬式が予定されてた?」

「・・・??そんなわけないでしょ(笑)」

驚いたけど、すべてが夢だと分かってホッとした。